溶けてしまうその前に。

ほっくんとじぇしたんのクリエにファンサがなかったらしい。




昔の嵐を、翔くんを知らないけれど、わたしの出会った翔くんは視野が広い人でした。翔くんに会いたかったけれど翔くんのくりくりの瞳のなかに入りたいという願いはどこにもなくて、うちわは伝えるための手段だったし、フリー曲ではわちゃつく彼らと彼らに応えて踊ることが当たり前であり楽しみでもあった。ファンサという文化は宝くじが当たるような世界だった。


でも。降りてきた先はそうではなかったのだ。1stコンサートでけんとくんに心を奪われたのは決してファンサではなく、彼のアイドルへのスタンスだったとここにきてから1年を経た初めての全国ツアーで頭に理解させることができた。けんとくんのファンサ(している姿)がわたしは好き。自分の名前が書いてあるうちわをみつけて嬉しそうに幸せそうにアクションをするその笑顔が好き。


今回のツアー中、所謂ファンサ曲が苦痛となっていた。時が進むのを望んだ瞬間。5人とも上まで みえている/みてくれようとしている ことを知っていてもなお、うぅっとした言葉にならない負の感情があった。魅せるという手段で正面から勝負することができると頭でわかったからだろう。


衣装だけでなく扱いの明らかなる「差」と向き合い続けたツアーだった。それでも5人がSexy Zoneとして、Sexy Zoneの3/5として、Sexy Boysとして、そして1/5のパフォーマンスをすればなにも気にならない見惚れる空間が出来上がっていた。


けんとくんのファンサを否定する気はこれっぽっちもない。ファンサで掴んだファンはファンサで降りる事実があったとしても。今後、過去や今によって苦しめられる未来が待っていたとしても。変わりゆく会場の広さも含めてけんとくんが自分で学んで答えを導いてくれればそれでいい。結局けんとくんのはじきだしたそろばんがわたしの正解になるから。ファンサだけに執着してあとは興味のないあなたのファンがいる。噂の期待値にガッカリさせることも酷いと言われることもある。メインステージでCandyを振り撒いて\LOVE KENTY/と言わせるだけで空間を幸せにすることができる。どこかで耳にしてくれているといいな。けんとくんの対一はこの上ない幸せだけど、けんとくんが生み出す対1万は(たぶん)それ以上に幸せなんだよ。