“担当”という言葉に、存在に、拘ってることは自覚してる。

アラフェスに行ってきました。眠ることによってリセットされつつある気持ち。これがいいことなのか、そうでないのか。今はなにを強く思っているのかわからない。ただ思ったこと、考えたこと、これからのこと。長くなるうえに不愉快な想いをさせてしまうかもしれません。責任はとりませんよー^^ってことだけ。どうしてそんなに身勝手なんだお前は!!!!!


滝つドームから2週間が経ったんですね。


前エントリーで少し触れたんですけど、あの記事を書いた後もまだまだ揺れに揺れていて。所詮強がりだったんですよ。自分に言い聞かせるために書いたものだったというか。なにをしててもふうまくんのことがぐるぐる駆け巡って、好きだなぁってことしか生まれなくて。辛くて苦しくて担当ってわからない、スライドすることまで本気で考えてた。どうしたいのかどう思ってるのか自分に正直になれなかった。自分の本音を見つけられなかった。それってふまくんが好きで1番ってことじゃん!って思い返すと自分に突っ込みたくなる。でも、でも、けんと担であることに一種の意地みたいなものが働いた。ふうま担である自分って想像がつかない。だから最終的な決断、には至らなかった。それがさらに首を締めた。
きっかけは“初めて見た”えび座、です。ふまくんがいないえび座は幸運なことにけんとくんをだけを見ることが出来る。なにも考えずにけんとくんを追いかける。演技をしてるけんとくん、歌って踊るけんとくん。けんとくんが好きです。上手く、綺麗な1歩も乱れない着地を決めることが出来た。
ステップアップしたスタート地点に立っているような気持ちでした。けんとくんを好きになったときに感じていた、すべてがきゅんとする、あの新鮮な想い。


これ石(むしろ槍とか剣とか)投げつられるかな。だからアラフェスが近づくのは嬉しくて嬉しくなかった。HEY!の番協に当たったほうが嬉しかったよ。けんとくんに会いたかった。とてもとても。


いろいろあって*1、当日は純粋に楽しむ準備が出来ていました。学校ではうわの空状態で時計と睨めっこ。OPから、ううん、会場に入ったときから鳥肌が絶えなかった。初めましてじゃないけど、7万人で埋め尽くされる国立競技場は圧巻でしかなかった。夢だった場所。ずっとずっと夢だった場所。この景色が何度見たいと思い、何度涙を流したことだろう。

日々をこうして過ごす中に 灯りの様キラリ光るばかり
そう 今僕らは交点を結び それぞれの道へと進み
包み込む日々が輝きだすのは 時間がそれを彩り光るから


僕はそして交点の先へ... いつかまたね交点の先で


はっ!としたんだよね。それぞれの道に進んでるんだって。わたしは今ここにはいないんだって。急に足元が鮮明になった。
楽しかったよ。とてもとても楽しかった。嵐のライブはこれだと。遠くの自担より近くのメンバーより騒いで踊ってひとつになること。表情なんて裸眼ではほとんど確認出来ない席だったけど応えることで、踊ることで、魅せてくれることで笑顔になれるわたしの好きな嵐だったの。翔ちゃんの遠くを気にしてくれる手の振り方やいつもの煽り大好きな笑顔、にのちゃんの機転が利くお喋り好きな歌声好きなダンス、智くんの智くんにしかできないソロとひとりひとりを覗き込むような優しい顔、潤くんのライブにおける安心感とかっこよさ、相葉さんのきらきらスマイルとテンションあがりすぎちゃったいつもの相葉雅紀。なにも変わらない嵐。アラフェス。みんなで造ったお祭り。
それでも気づいてしまってから、現実が纏わりついてはらってもはらってもどこかに残ってる。そんな自分が嫌い。


出来事がわたしのなかで過去として処理するとき、心のシャッターがきった何枚もの写真と共にわたしは“気持ちのにおい”を思い出にしまいこみます。Love so sweetを聴くとどきどきした春が近づく冬の匂いが。Lady ダイヤモンドを聴くときゅんと心が踊る春の横アリの匂いが。たまに強めの横風が吹く国立で聴いたスケッチは、スクリーンに映る5人の姿ははじめましてだった。
Wアンコールが終わったのが20:43。憶測でしかないけど、頑張れば出てきてくれたと思う、出てこれる時間だったと思う。前にいたお姉さん方も同じ気持ちだったはず。規制退場のアナウンスに従って帰っていく人たちの流れを見ながら、あの日、2月12日東京ラスト公演が甦った。誰一人として帰る人がいなかった。最初で最後のファーストコンサート、彼らの姿をもう一度見たくて必死で声を出した。出てきてくれたとき、とってもとっても嬉しかった。あの全員の必死さが胸をぎゅっと掴んで放さない。
呆然としてるお姉さんたちの後ろ姿を見ながら、この嵐の形は好きじゃないと。大衆化するってこういうことなんだね。わかってはいたけど、この目に突きつけられたっていうか。距離が出来て見えてきたっていうか。


ふふふ。我儘で自分勝手。昔の嵐なんてほとんど知らないやつがなに言ってんだよ。ただの嫉妬。


ピリオドだと思った。
それだけこの夏でけんとくんとSexy Zoneの存在が大きくなってた。恐怖と不安がつきまといながらも飛び降りたことなんて、結果として痛くも痒くもなかった。じゃああの4〜5年は本気じゃなかったのか、と聞かれたらそりゃあ大好きで大好きでずっとついていくもんだと思ってたよ。バブルが弾けても好きでいる!!!って思ってたよ。
わたしね?翔くんを好きになったことは必然だと思ってるんだ。いつでも、どこにいても、一瞬さえ同じ時間を重ねていたら必ず好きになってる人なんだよね。でもけんとくんはたぶん違う。偶然。けんとくんを好きになったのは偶然なんだ。けんとくんに惹かれたのは言葉では言い表せない、もうほとんど残っていない、衝撃的な想いだから。実際に会ったけんとくんだから好きになったし、そこでけんとくんを見ようと思ったからけんとくんを好きになって。コンサートに行くという事実がなければ、そこでけんとくんという選択肢を選ばなければ、これから先(どうなってるかわからないけど)けんとくんがこんなにも大事な人になることはなかったのかなって。
嵐からいろんなことを教えてもらった。好きになることの楽しさも嬉しさも幸せも笑顔も辛さも苦しさも痛みも。胸の高鳴りもきゅんとする心も。おたくとしてどうあるべきかも。毎日がこんなにもきらっきらに輝くことも。ありがとう。最大で最高なありがとう。いっぱいいっぱいありがとう。
Sexy Zoneを自ユニだと、けんとくんを自担だと胸を張れる幸せは寂しさと引き換え。
線を引くこととピリオドをうつこと、何が違うのかと言われたらこれからの行動が変わることはない。好きが変化することもない。ちょっとした意識の差が私の中で重要。でもちゃんと「さよなら」を言わなきゃ。言えなかったから。


「ありがとう。後ろを振り返ることもすがることも、もうしない。新しく開拓してる路を5人に恥じないように大切な人と歩きます。嵐のように大きくなることを目指して。
ありがとう、ありがとう。さよなら。」

*1:ざっくり説明すると、20日にペンライトを買いに国立に行き、音漏れ組を見ながら、聞こえてくる嵐の声を聞きながら、やっぱり好きだと思った。好きになってよかったと。道中、明日でさらに濃い線を引こうとか考えてたのにそんなこと出来そうにないと。